“あや”さんの名前の由来 〜日本における国際カップルの物語〜
「私の名前は、“あや”です。あやと呼んで下さい。」
長いストレートの髪をさわりながら、
彼女は少しはにかんで応えた。
パキスタンの民族衣装であるピンクのシャルワーズ・カミーズがとても似合っている。
「これは、ナワーブが彼のお母さんに頼んで送ってもらったものなのです。
…袖を通すのは初めてです…。
サルマ(筆者)、どうですか? 似合いますか?」
傍らには、ナワーブさんが優しい笑顔をたたえている。
「私の本当の名前は、きっとサルマには発音できないでしょう…。
それに、私はこの“あや”という名前、とても好きなのです…。」
「この“あや”という名前は、自分で付けました。
お店に出るとき、必要だったのです。
日本人が呼び易いように、日本の名前をつけることが決まりでした。
お店の人が選んだ名前を適当につけることもできましたが、
日本に来た当時、放送していたドラマがとても好きで、
そのヒロインの名前を自分でつけました。
そのヒロインは、話すことができないのですが、
それでもひたむきに回りの人間のことを大切に思いながら生きていました。
そのヒロインの姿に、当時の私はとても励まされていました。
家族から遠く離れて、日本語もまだよく話せないの境遇とも重ねて、
このヒロインの“あや”が、自分のことのように思えてきたかもしれません…。」
私は、あやさんが日本に来て、
決して広くはないであろう当時の彼女の住んでいた部屋でこのドラマを見ている姿を想像して、
胸がキュン、となった。
あやさんの国籍は、フィリピン。
私たち日本人は、彼女たちを総称して、「フィリピーナ」と呼ぶ。
「…私は5年前、興行ビザ(あやさんは、エンターティナーと説明)で日本に来ました。
大学を出て、日本でいう“助産婦”の資格をとって働いていたのですが、
賃金の高い日本に行くことを決意しました。」
「大学を卒業できたときは、それはもう、家族で大喜びでした!
というのも、フィリピンでは、
大学卒業の発表は、ニュースペーパーに掲載されるのです。
…当時のことを思い出します!
私は発表当日、怖くて怖くてなかなか新聞が手にとれませんでした。
お母さんがずっと傍らにいてくれて、
「大丈夫よ!」 と励ましてくれて、やっと目を通すことができました。
そして、私の名前をみつけたときには、
もう…! お母さんと一緒に泣き崩れてしまいました!」
「助産婦の仕事は、とてもやりがいのある仕事でした。
…しかし、兄弟の面倒を見て、一家を支えていく現金収入を得るために、
私は家族と相談して、日本に行くことを決意しました。」
「1番始めに働いた場所は、浜松です。
温かくてとてもよいところでしたが、3ヶ月ほどですぐに富山のお店に移動になりました。
富山で初めて、雪を見たときは、綺麗! と思わず叫んでしまいましたよ!
「そして、6ヶ月ぐらい程で、今後は群馬県内のお店に移動になりました。
…そこで、初めてナワーブに会ったんです…。」
あやさんは傍らにいるナワーブさんのシャツの袖を少しつまんで、
彼に笑いかけた。
その何気ない仕草が、二人の仲の良さを象徴している。
「ナワーブとは、12月29日に初めて会いました。
そのときのことは、今でもよく憶えています。
私は24日からそのお店に移動になって、初めての場所でとても緊張していました。
日本にきて10ヵ月程度でしたが、
日本語がわからずお店にいても何をしていいのか…。」
「そんなとき、
私が働いていたお店に、友達のパキスタン人と一緒に来ていたのです。
友達の方は、お店によく来る常連さんでしたが、彼の顔を見たのは初めてでした。
彼はお酒も飲まず、ただカウンターに座ってコーラを飲んでいるだけでした。
ときどき、彼がこちらを見ているような気がしたのですが、気のせいだと思いました。」
そこで、茶目っ気のある夫が、茶々を入れる。
「ナワーブは、“あや”さんに一目ボレだったんだよ!」
心なしか、いつもは冷静沈着なナワーブさんの顔が、ほんの少し赤らんだように見えた。
「それでも、実際に言葉を交わすまでには、時間がかかりました。」
そこで、さっきまで下を向いていたナワーブさんが、意を決した(笑)ように口を開いた。
「だって、私の国(正確には夫たちの故郷、パキスタン北部地域)では、
男性が家族や親戚以外の女性に(周囲の面前で)声を掛けることなんて、
考えられないから…。
どうやって、声をかけていいのか、
何から話していいのか…。」
「結局、友達に仲介してもらって、
やっと挨拶を交わすことから始まったんだよ。」と、
夫が二人のなれ初めを私に説明する。
「私はすぐに、ナワーブが好きになりました。
とても控えめで、多くを語らないのですが、
目がとても綺麗で、その瞳に吸いこまれそうになりました。」
しかし、程なくしてあやさんはまた元の富山のお店に移動が決まり、
二人に初めての別れが訪れる。
「あの時は、もう胸が張り裂けそうでした!
これで二人の関係は終わった…と思いました。
だから、ナワーブが大雪の降る中、群馬から富山まで一人で会いに来てくれたときには、
もう…、言葉がありませんでした!」
あやさんは、そこでナワーブさんと共に生きていくことを決意して、ある実行をする。
「私はもう、お店で働きたくなくなりました。
それよりも、ナワーブといっしょにいたい、と心から思いました。
同僚の友人はそんな私を止めましたが、
私はある日の深夜、お店の寮を抜け出しました。」
「そこで、初めて新潟から新幹線に乗りました。
新幹線はとても早い! と聞いていたけれど、そのときの私にとっては、遅く感じました。」
「そのとき、パスポートはお店のオーナーの取り上げられていたので、
持ち出すことができませんでした。
そして、今に至っています…。」
一方のナワーブさんは、私の夫の友人でパキスタン国籍。
いつも視線を落とし、とても控えめな好青年である。
あやさんと我が家に初めて遊びにきたときも、
「お邪魔致します…」と、流暢な日本語で挨拶をして、靴をそろえることも忘れない。
あやさんとナワーブさんが一緒に暮らして、約4年・・・。
そんな仲睦まじい二人の関係も、
日本の法律である「出入国管理及難民認定法」で言うと「超過滞在者」に従属する。
そして、日本に滞在するかぎり「外国人」
そして「オーバースティ」と呼ばれ続ける…。
「私たちがもしお互いの家族に会える・・・
そのときは、私たちのどちらかが摘発等で帰国することになるときです。
私たちは、この平和で美しい日本が好きです。
回りの人たちも、ときには意地悪な人もいます。
理不尽な扱いを受けることもあります。
でも、優しい人もたくさんいます。
だから、私たちは日本にいるのです。そしていたいのです…」。
私はあやさんとナワーブさんを目の前にして、
何と言葉をかけていいのかわからなかった。
そして、日本でたった二人で支えあって生きている彼らが、とても強く、美しく見えた。
決して多くを語らない、ナワーブさんとあやさん…。
ここで日本の外国人政策、外国人労働者云々の問題を語るつもりは、ない。
だが、ここまで私のこのつたないコラムを読んでくださった方に
一つだけお伝えできれば…と思うことは、
「貴方の隣りにいる人間の声に耳を傾けて欲しい」、ということだ。
それは、貴方の隣りにいるパートナーかもしれない。
あるいは、子ども、親、友達、恋人…かもしれない。
そしてあやさんが、“あや”という名前を自分でつけたときの、
そのときの「気持ち」に、少しだけ寄り添っていただければ・・・と思う次第である。
補足:
当時、あやさんと一緒に働いていた同僚の友人の約半数程度は、
その後、日本人と結婚し、現在は「日本人の配偶者等」の在留資格を得て、生活している。
だが、あやさんはいう・・・。
仕事の悩みから解放されても、「配偶者の問題や、価値観の違い」などの新たな問題を抱え、
今でも相談の電話がかかってくることがある、と。
その後のストーリー:
その後、あやさんとナワーブさんは日曜日の朝、
一緒に自宅のアパートを出たところ、 警察官に連行されたそうです…。
その後、別々に収容、簡潔な裁判を経て、
それぞれパキスタン、フィリピンに強制送還されました。